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【特別寄稿:一考・教養主義】


元財団法人国際ビジネスコミュニケーション協会副会長
阪田貞宜

さかた・さだよし 1919 年生まれ。1943年東北帝国大学卒業後、国立国会図書館、アジア経済研究所を経て、1986 年(財)国際ビジネスコミュニケーション協会の設立に参加。理事長、副会長として「TOEIC」の普及に携わり、2008 年退職。
主な著書に『英語初級者のための自学自習レッスン』ぎょうせい、2009 年など。今年10 月にはNPO「元気な120 才を創る会」が選ぶ2010 年「ヘルシーエイジングパーソン」に選ばれている。

第2題 道徳――道徳律はあるのか

私徳と公徳

 戦前の教育を受けた年代の人たちにとって道徳といえば教育勅語を思い浮べます。戦後になると教育勅語は教育の場から消えてしまいました。
 その後これに代わる道徳が規範として示されることもなく、私は長い間不思議に感じていました。

 私の学んだ小学校の校歌には「磨けよ私徳と公徳を」という句がありましたが、ある時ふと思い出し道徳には私徳と公徳とがあり、教育勅語は公徳だと気づきました。
 国の秩序を保つための規範として教育勅語は皇国思想の普及に用いられていたのです。
 戦後何十年経ってもわが国では国の理念が明確でなく、したがって公徳も定められないということなのでしょうか。

 私徳は公徳に対し狭い集団の秩序を保ち、コミュニケーションを円滑にするために決められた規範です。したがって個人の日常生活で守られるべき「きまり」です。
 戦前では二宮尊徳の像が小学校に置かれ、薪を背負って書物を読む姿は「勤勉」の徳の大切さを教えていました。その実態は「勤勉」というよりも国への「奉仕」を強調していたのですが、戦後は「勤勉」という私徳を教える像として所所で復活しています。

 道徳は個人個人を取りまく環境の性格によって左右されます。現今のように世界化が進んで、コミュニケーションが多様化し個別化すれば、このような状況に対応する公徳と私徳が求められます。
 教育勅語は日本という国家を基盤にした規範でしたが、世界化の時代にはそれに適合した新たな私徳や公徳が教育の対象となるべきです。

道徳は生得のものか習得するものか

 一般的に道徳は神仏や偉人の定めた戒律であり、人はこれを順守すべきものと考えられています。
 キリスト教徒なら「山上の垂訓」に、儒教を学ぶ人なら孔子の教訓に順うことが道徳の基本とされています。教育勅語も戦前の日本人にとっては守るべき道徳を説いたものでした。
 しかし道徳的行為はいつも神仏や偉人などの教えに順ずるとは限りません。

 線路下に落ちた人を救おうとして、かえって不幸に電車に轢ひかれ命をなくした人がいます。彼は「救うべし」という定言命令を心に浮べ突差に行動に移ったのです。

 カントはこのような定言的な命令に順う道徳にこそ理性の自由があるとしました。
著書「実践理性批判」の結びに次のような有名な言葉を残しています。

「ここに二つの物がある。それは…〈中略〉…感嘆と畏敬の念をもって我々の心を余すことなく充足する。すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である。」
(「カント実践理性批判」波多野精一ほか訳 岩波文庫 参照)

 個人個人に道徳が備っているとすれば、私徳は概して生得のものといえます。東洋にも「惻隠の情」という句があり、あわれむ心を意味する生得の徳です。
 生得の徳は人の心の中にあるので、これを磨いて向上させることができます。その点順守すべきものとされる公徳と異ります。

 私徳は個人の保持するもので他者から承認されることが条件であるのに対し、公徳は集団の一員として他の成員と共有して成り立つ徳です。
私徳は磨くことによって向上するのに対し、公徳は順守されることによって強い規範となります。

律としての道徳

 世の中には集団の成員に順守を求める「きまり」や「おきて」がいろいろあります。道徳のほかにも法律、戒律、標語など様々です。

 これらは心理的にも行動的にも人を拘束しているのですが、道徳とはどう違うのでしょうか。

・法律
 法律は社会の秩序を守るための制度として最も基本的な規範です。
 法律は違反者に罰則を定めるのが通常ですが、罰則には軽重があり、犯罪の内容に応じて定められています。
罰則の有無が法律と道徳とを分ける基本的な差異です。

・戒律
 多くの宗教は信者の守るべき生活規範を神や仏の言葉として定めています。規範を守らない信者には法律のような罰則はありませんが、人間を超越した神や仏の声に背むくことは信者に大きな心理的負担を与えます。

 キリスト教のように神が人間の創造者である場合には、信者が神の言葉(福音)に違反することは考えられません。1500年以上続いたキリスト教世界では個人の徳すなわち私徳は考えられませんでした。
  現在ではユダヤ教の律法「モーゼの十戒」やキリスト教の福音「山上の垂訓」などは西洋社会の人々の道徳の基礎として根づいています。

・私的掟
 身分、階層など特定の集団がその利益や秩序を守るため、「きまり」を作ることがあります。
 単なる規約で結ばれることもありますが、秘密結社のように罰則を厳しく定めるものもあります。
 また武士道や騎士道のように身分に基く道徳と考えられるものもありますが、「集団のため」が強く意識されれば道徳の性格が薄れてしまいます。道徳の拘束は心理的でゆるやかなものです。

道徳をどう理解したらいいのか

 道徳は何が真であり、何が善であるかを判断して己れの行うべき道を定める心の働らきです。いわば心の中の作用ですから、具体的に説明し難い面があります。

 まず一般的には神仏、権力者、先達などの書き示した語句によって理解します。しかしこれらの語句は象徴的なものが多く、真意が何であるかはなかなかわからず、身にもつきません。
 往往にして「論語読みの論語知らず」になってしまいます。したがって語句には註釈が必要であり、その意味で道徳を磨くことは一面学ぶことであると言えます。

 しかし道徳は知によって悟ればいいとは限りません。道徳は他者によって承認されるべきものですから、徳を学んでもそれが「立ち居振る舞」すなわち実践に現われねばなりません。
 「知」だけでなく、「行」も大切です。この意味で徳を磨くとは修行によって道徳的な風格が備わることです。

 道徳は「知」(知識)に偏せず、「行」(実践)にのみ頼らず、知と行を兼ね備えて始めて成り立ちます。王陽明の知行合一説のように「知」は「行」によって裏付けられて「良知」となるといえます。

 ただ「知」や「行」は集団(民族、国家、地域など)によって特定の慣習があることに注意する必要があります。
 また現今のように世界化が進んで異文化間のコミュニケーションが盛んになると、世界市民としての道徳が求められます。

 また新たな道徳に伴って知行の両面にわたりその涵養が求められます。私たちは現在「新しい道徳は何か」と問うても明確な答を持っていません。私たちに課せられた大きな問題であると思います。


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